アメリカで働いた経験 ~システムエンジニアと大学院~

前回電話会社での仕事の話をしましたので、今回はその続きを書きたいと思います。

この間お話ししたプロジェクトをマネージしている再中、実はわたしは通信で修士号を取る勉強もしていました。
ビジネスにも興味があったしITの世界も好きでしたので、どの先攻にするか迷ったのですが、
色々調べた結果、2分野の中間と思われる、プロジェクトマネージメントが良いのではないかという結論に達し、
デンバー大学の大学院に応募することにしました。

エッセーを書いたり、推薦状を貰ったり、TOEFL のような英語の試験も受けました。
結果合格し、めでたく修士課程へと進める運びとなったのです。

でもフルタイムで働きながら勉強するのは簡単なことではありませんでした。
今でもそうなのですが、その当時からわたしは割とアクティブで、ジムに行ってワークアウトするのが好きでした。
でもとにかく忙しかったので、ジムでワークアウトしている合間に同じ修士課程の学生と
プロジェクトのシュミレーションの会議を携帯でしたり、というようなことをしていました。
それと読む物が膨大にありました。するする頭に入ってくるものもあれば、
財務分析やBusiness Forecastingなどは最初???という感じで苦労しました。

社会人になって色々学校に戻って勉強するのも良いのですが、学生の皆さんはせっかく学生なので(笑)
今のうちにバリバリ勉強して頂きたいものです。イヤでもいつか社会にでて働かねばならず、
しかも一度出たら定年まで長いですよ!ですから学生の時はやはり勉強かとつくづく思います。

卒業証書

さて大学院の卒業を機にわたしはミシガンにある豊田通商アメリカに転職することにしました。
仕事の内容はシステムエンジニアだったのですが、豊通アメリカの社員であって、
日本のトヨタ自動車の派遣社員であって、
派遣先がTEMA (Toyota Engineering & Manufacturing North America, Inc.)、というちょっと変わった環境でした。
TEMAは部品のデザインや品質テストをするところで、
近くに他にデザイン(これは部品のデザインではなくてファッションデザインのように見た目のところ)だけをする他の事業体もあり、
大体そこの2カ所で仕事をしていました。

最初に転職してビックリしたことは、日本語を忘れていたことです(笑)。
それまで5年とか6年殆ど日本語を使わなかったからです。使うと言ったら、週に1度日本語家族と電話で喋るぐらいでしたので。
ある日会議でメモを取っている時に「トヨタ」というカタカナが浮かんでこなくて、「と、と…、とってカタカナでどうやって書くんでしたっけ?」と誰かに聞いた記憶があります。この恥ずかしい事件をきっかけにデスクの後ろの壁に真剣にあいうえお表が貼っておきました。
よく隣りの日本人の同僚に「ねぇ、●●さん、日本語でcontingencyって何と言うの?」というような日本人として普通あり得ない質問をしていました。

ちなみに当時は日本の家族と話していても、遺書と遺言書を間違えたりと色々失敗をしました。
一度出張に行った時にプリペードの携帯にお金を足したいと説明が出来ず、コンビニで外国人と間違えらえたことまでありました。

使わないと忘れてしまうんですね〜。でも逆に使えばしっかり英語力はつくという証拠でもあると思います。
ですので、もし英語なんて練習したって駄目なんじゃないなんて諦めている方がいらっしゃいましたら、
もうちょっと根気よく頑張ってみて欲しいです。

さて仕事の方はといいますと、出張が非常に多かったです。そういう意味では色々なところに行けて楽しい仕事ではありました。
あまり言うと企業秘密かも知れないのでやめておきますが、
最初はトヨタ自動車で使っているあるシステムの運用をしていたのですが、
後にその仕事を離れて途中トヨタサプライヤー向けのビジネス展開なども行っていました。
色々出来てよい経験にはなったのですが、2年経ったところでニューヨーク(しかもマンハッタン...)への転勤命令が出ました。

そのころ既にわたしはいつか起業しようという気持ちがあったので、これを機会に思い切って会社を止めて独立することにしました。

続く。

Year of 1994 Eri